70'sはまだ新松戸も発展途上で、かなり自然が残っていました。
子どもの頃、コーポの北側は丈の長いススキが生い茂る原っぱが広がっていて、暇さえあればバッタやカマキリを捕まえて遊んだのが思い出されます。
草刈りされていたのかススキが生えていない領域もあって、そこにはシロツメクサやレンゲソウが一面に生えており、白やピンクの花を咲かせていました。ミツバチやてんとう虫なんかがたくさんいて、賑やかな感じでした。
冠を作ったり四つ葉、五つ葉のクローバーを探したりと楽しく遊びました。
今の新松戸は原っぱはほとんどなくなってしまいましたが、唯一当時の面影を残す場所が新坂川沿いです。
流山線沿いの「おたふく」という老舗のおでん屋さんで地元育ちの常連様から聞いたところによると、地元では新坂川を新川と呼ぶそうです。
新坂川沿いの土手や道端には当時を彷彿とさせる立派なススキが生えていますが、このあたりのススキの穂は芯の部分がやや赤みがかった色をしているんですね。
関東ローム層の赤土が影響しているのではないかとのことですが、昔からの言い伝えでは関ケ原の合戦当時に豊臣方だった小金城主の家来たちがこの地で追手に捕まって殺され、土にその血がしみ込んでいるからススキの穂が赤いのだと言われていたそうです。※注
武蔵野線すら通っていない時代には新松戸から西側は湿地と田んぼ以外には何もなく、地平線が見えたそうです。地平線に沈む夕日は綺麗だったことでしょうね。
今でも結構新松戸の空が広いのは、きっとその頃の名残なのでしょう。
ところで、昔は新松戸という地名はなかったそうです。新松戸の駅ができるときに幸谷や大谷口などの間に地名の綱引きがあったようで、まとまらないため新松戸になったそうです。
ちなみに、流山線に小金城趾という駅がありますが、住所は大金平です。この住所も比較的新しい地名とのことで、大谷口、金杉、平賀が綱引きをした結果として「大金平」になったそうです。
新坂川沿いは昔の面影を留めていて散歩をするとホッとする場所なんですよね。
話は変わりますが、80年代の前半頃までは新松戸コーポの廊下を朝歩くと、夜のうちに蛍光灯に集まった大物の昆虫達が落ちていました。
こんな奴らです。↓シロスジカミキリ
出展:http://tukik.exblog.jp/14998983/
こんなのもしょっちゅう↓オオミズアオ
出展:http://www.nextstandard.jp/category/1264785.html
レアではあるものの、コクワガタやノコギリクワガタ(雌)を見付けたこともありました。
根性がある子供は朝早起きして1階から9階までの廊下をくまなく探し、かなりの数のクワガタを見つけていたようです。
友達の兄貴がプラケースいっぱいにゴソゴソと飼っていたのが思い出されます。
こんな大物昆虫たちが原っぱから出没していたかどうかわかりませんが当時はそれだけ豊かな自然があったということですよね。
今となってはあり得ないですよね。
※注
後日、図書館で小金近辺の言い伝えについての文献を読んだところ、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、小金城主の高城氏が北条側だったため、豊臣軍に攻められ多くの兵が戦死し、その血が土にしみ込んだためススキが赤くなったという言い伝えがあるのだそうです。
また、別の地元の有識者の方からススキの茎が赤いことにまつわる別の言い伝えをお聞きする機会がありました。
大谷口に平戸弁天(いぼ弁天)という祠がありまして、富豪の娘がイボを洗って治療したことが逸話として伝わっているのですが、その娘さんが笹の葉で手を切って怪我をした際に流れた血でススキが赤くなったのだという言い伝えがあるのだそうです。
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