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2015年12月13日日曜日

1976年頃 新松戸コーポ南側の公園

またしても実家から昔の写真を掘り出してきました。

1976年頃の新松戸コーポ南側にあった公園です。
この頃もカラー写真の方がメジャーだったはずですが、なぜか白黒フィルムで撮影されていました。





今は潰されて駐車場になってしまったこの公園いっぱい遊ばせてもらいました。

シーソー、ジャングルジム、砂場、藤棚まであるなど、結構充実した公園でした。
日向なので、いつもポカポカと暖かく気持ちよかったですねー。

シーソーでは友達同士、両端に乗って思い切りギッタンバッコンやって度胸比べのような遊び方をしていました。
かなりのGを感じ、危険な遊びでした。
余りに危ないせいか今般ではシーソーは公園で見かけなくなりましたよね。

滑り台の左に見える球体は水飲み場です。コンクリート製で茶色のペンキが塗ってありました。

ところで、いずれの写真も正面は東側です。
今は新松戸ハイツがあるあたりがこの頃は原っぱでした。

時代を感じますね~。

2015年11月24日火曜日

1979年頃のロケット公園


実家で掘り出し物がありました。

1979年頃のロケット公園(鐘の下公園)の写真です!

圧倒的にオジサンとなった私、既に当時の面影はございませんので顔出し上等です。


当時はこんな巨大なロケットの遊具が鎮座していたんですよねー。
ロケットの形でしたので本当に飛ぶんじゃないか感があってワクワクしたものです。

ロケット3階部分につながるブリッジの高さは3メートル以上はあったものと思われます。

余りの高さに足はすくみ、今の感覚で言えば非常に危険です。

が、複雑な形状の遊具ですので鬼ごっこや警泥をするには持ってこいの場所で、素晴らしく楽しい公園でした。

高低差がかなりある滑り台もスピードが出て楽しかったです。


下の写真、写っている子は私と弟君です。 

幼い私が手にしているウルトラマンと大怪獣の絵本、時代を感じますね~。

当時は第二期ラストのウルトラマンレオ(1974年)が終了してから5年も経っていたのですが、ウルトラマンシリーズは依然として大人気で、再放送か或いは再々放送だったかわかりませんが日曜の朝早くから放映されていたのでした。

前日には絶体にみてやるつもりでやる気満々の私なのですが、たいがいの場合は寝坊して見逃し三振。
悔しい思いをしたんですよね。
全く反省できない子供でしたので実際に視れたのは僅かに数回だったかもしれません。

写真を見ていて思い出したのですが、当時はロケット公園(鐘の下公園)って敷地が今の半分くらいしかなく、狭かったんですね。

それにしても後ろ(公園の北西)は原っぱ以外何もないでしょ?
巨大なトノサマバッタとか、カマキリとかがいっぱいいて楽しく遊ばせて頂きましたです。。

写真左上方に見えるポータブルトイレはよく使いましたが、基本的には工事現場の人用だったと思います。
当時はそこら中で造成工事をやっていましたので、こんなポータブルなトイレがあちこちにあったんです。
そして、ブルドーザーのエンジン音やら、クレーン車が杭打ちをする「こーん、こーん」という音が絶え間なく響いていました。

引用元:国土地理院

上の写真は国土地理院からダウンロードした1979年9月の航空写真で、中心付近にある数字の7のような型の緑に見える部分がロケット公園です。
この頃、ちょうど東パークが建設中であることが分かります。

下は1984年頃のロケット公園の写真です。

この頃はバブル前夜でして、開発が進んできてはいるもののまだ原っぱが多く残っています。
もう公園の敷地が拡張されていて今と同じ広さになっており、写真の右端にロケット型遊具の黄色いてっぺんが辛うじて写っています。

引用元:国土地理院

上の写真は国土地理院からダウンロードした1984年9月の航空写真です。
こちらも中央付近に見える数字の7のような形の緑地の部分がロケット公園です。
1979年の航空写真と比べるとかなり建物が経ち始めたのが分かります。

1984年の写真の右下にデカデカと写っている鉄塔は次の写真中央付近の柵に囲まれた敷地に建っていたのですが、撤去されて久しいようです。


話は飛びますがロケット公園の東側には謎の細長い草地があるんですよね。


子供の頃はいったいこれが何なのか分かりませんでしたが、いまさらながらこの草地は鉄塔と鉄塔を結んだ間に存在していることに気づきました。

きっと、事故などで高圧電線が切れたりしたとき人家に被害が出ないよう空き地にしてあるんでしょうね。

ちなみにですが、この鉄塔を伝っていくと何処にたどり着くんだろう?と疑問がわいてきましたのでやってみました。

は終端、が鉄塔です。

撤去されて久しいあの鉄塔も入れてありまして、左から5個目のが該当します。


調べると終端はJRの変電所(新松戸⇔北小金)のようなのです。
新松戸側のターミナルとなる変電所は下の写真のようなところです。
写真右の緑地はとちのき公園ですね。昔ここでもよく遊びました。


変電所は子供のころから存在は知っていてなんとなく気になる場所ではあったのですが、見るからに怖そうなので入って探検したりはしませんでした。

他サイトの情報によると武蔵野線に電気を供給する設備なんだとか。

子供の頃の私はまさかこの施設とロケット公園脇の謎の草地が関係あるなんて全く考えが及ばず謎の草地は心の奥底に引っ掛かりをのこしたまま封印されておりました。
今回35年以上もの歳月を経て謎を退治することができたのは収穫でした。

話が色々脱線しましたが、主にロケット公園のお話でした。

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後日、松戸市広報課が長年にわたって「広報まつど」用に撮影した貴重な写真が、松戸市立博物館に収蔵されていることが分かりまして、有難くも閲覧させていただく機会を頂きましたのでご紹介いたします。

ロケット型の遊具の全景がわかる1983年頃の貴重な写真です。

写真提供:松戸市立博物館/『松戸市役所広報課旧蔵写真目録』より

さすが当時の広報のご担当者が撮られただけあってピントも構図も完璧ですよね。
この写真の左方に写っている建築中の一軒家は、前段の1984年のカラー写真では既に完成しているのが分かります。
ほぼ同時期の写真を見比べてみるというのも面白いものですね。

2015年9月22日火曜日

1978年頃の新松戸4丁目付近


このシルバーウイークを利用して実家に帰り、昔の写真を発掘してきました。

1978年秋頃に新松戸コーポから見た新松戸4丁目付近のビューです。
経年劣化による痛みで左下の方が緑色に変色しているのがちょっと残念です。


新松戸4丁目付近は現在、サンライトパストラル六番街が建っているところですね。
サンライト六番街は1981年の竣工なので、このときは原っぱ。

ジェーソンとか洋服の青山のあたりも見事に原っぱですね~。

写真左隅の上下真ん中付近に見えるのはサンライトパストラル壱番街です。
サンライト壱番街は1978年2月竣工ということで、おそらく竣工半年後くらいの姿。

写真右隅の上下真ん中付近に見えるのは新松戸中央パークハウスですね。
中央パークは竣工が1979年2月ということで、この写真の時点では内装工事なんかをやっているんじゃないかと思います。

奥の線路は武蔵野線、手前の2本の線路は貨物線ですね。貨物線は常磐線⇔武蔵野線の乗り入れをするための線路なんですね。

2本のうち手前は常磐線下り方面(北小金の方)から武蔵野線下り方面への合流、奥は常磐線上り方面(馬橋の方)から武蔵野線下り方面への合流なのです。。

どこから走ってきたのか、冬には雪が積もった貨車が通ったのを記憶しています。
ときおり聞こえたピーッとかポーッという汽笛の音が懐かしいです。

下は、国土地理院から引用した1979年9月の航空写真です。

引用元:国土地理院
南北がひっくり返ってまして、上側が南で下側が北になります。
冒頭の写真は赤い→の方向です。
1年程ずれがありますが、あまり変わっていないようです。
対比すると面白いですよね。




2015年4月28日火曜日

ススキのはらっぱ


70'sはまだ新松戸も発展途上で、かなり自然が残っていました。

子どもの頃、コーポの北側は丈の長いススキが生い茂る原っぱが広がっていて、暇さえあればバッタやカマキリを捕まえて遊んだのが思い出されます。

草刈りされていたのかススキが生えていない領域もあって、そこにはシロツメクサやレンゲソウが一面に生えており、白やピンクの花を咲かせていました。ミツバチやてんとう虫なんかがたくさんいて、賑やかな感じでした。
冠を作ったり四つ葉、五つ葉のクローバーを探したりと楽しく遊びました。

今の新松戸は原っぱはほとんどなくなってしまいましたが、唯一当時の面影を残す場所が新坂川沿いです。

流山線沿いの「おたふく」という老舗のおでん屋さんで地元育ちの常連様から聞いたところによると、地元では新坂川を新川と呼ぶそうです。
新坂川沿いの土手や道端には当時を彷彿とさせる立派なススキが生えていますが、このあたりのススキの穂は芯の部分がやや赤みがかった色をしているんですね。



関東ローム層の赤土が影響しているのではないかとのことですが、昔からの言い伝えでは関ケ原の合戦当時に豊臣方だった小金城主の家来たちがこの地で追手に捕まって殺され、土にその血がしみ込んでいるからススキの穂が赤いのだと言われていたそうです。※注

武蔵野線すら通っていない時代には新松戸から西側は湿地と田んぼ以外には何もなく、地平線が見えたそうです。地平線に沈む夕日は綺麗だったことでしょうね。
今でも結構新松戸の空が広いのは、きっとその頃の名残なのでしょう。

ところで、昔は新松戸という地名はなかったそうです。新松戸の駅ができるときに幸谷や大谷口などの間に地名の綱引きがあったようで、まとまらないため新松戸になったそうです。

ちなみに、流山線に小金城趾という駅がありますが、住所は大金平です。この住所も比較的新しい地名とのことで、大谷口、金杉、平賀が綱引きをした結果として「大金平」になったそうです。


新坂川沿いは昔の面影を留めていて散歩をするとホッとする場所なんですよね。

話は変わりますが、80年代の前半頃までは新松戸コーポの廊下を朝歩くと、夜のうちに蛍光灯に集まった大物の昆虫達が落ちていました。

こんな奴らです。↓シロスジカミキリ
出展:http://tukik.exblog.jp/14998983/

こんなのもしょっちゅう↓オオミズアオ
出展:http://www.nextstandard.jp/category/1264785.html

レアではあるものの、コクワガタやノコギリクワガタ(雌)を見付けたこともありました。

根性がある子供は朝早起きして1階から9階までの廊下をくまなく探し、かなりの数のクワガタを見つけていたようです。
友達の兄貴がプラケースいっぱいにゴソゴソと飼っていたのが思い出されます。

こんな大物昆虫たちが原っぱから出没していたかどうかわかりませんが当時はそれだけ豊かな自然があったということですよね。

今となってはあり得ないですよね。


※注
後日、図書館で小金近辺の言い伝えについての文献を読んだところ、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、小金城主の高城氏が北条側だったため、豊臣軍に攻められ多くの兵が戦死し、その血が土にしみ込んだためススキが赤くなったという言い伝えがあるのだそうです。
また、別の地元の有識者の方からススキの茎が赤いことにまつわる別の言い伝えをお聞きする機会がありました。
大谷口に平戸弁天(いぼ弁天)という祠がありまして、富豪の娘がイボを洗って治療したことが逸話として伝わっているのですが、その娘さんが笹の葉で手を切って怪我をした際に流れた血でススキが赤くなったのだという言い伝えがあるのだそうです。



2015年4月19日日曜日

昔の新松戸


1970年代~1980年代前半の少年時代を新松戸で過ごしたパパが新松戸の小歴史や昔のおもちゃなどについて綴るブログです。

1985年頃の新松戸中央病院と東パーク

以下、記事へのリンクになりますのでサムネールをクリックしてください。

昔の写真

取材で入手したり実家に残されていた写真を基に昔の新松戸を紐解きます。

   
   

懐かしいアイテム

昔流行ったおもちゃなどをヤフオクなどで再入手して愛でます。

変わらぬ風景

ダイエットがてらに散歩して撮った最近の写真などをご紹介します。