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2023年1月25日水曜日

1980年の松戸市消防出初式

1980年1月のこと、5歳だった私は母に連れられて消防の出初式を見物に行きました。

場所はといえば、現イオンフードスタイル新松戸店(旧ダイエー)がある敷地でして、翌年の1981年にはダイエーがオープンすることになるのですが、この時はまだ空き地だったんです。

幼い私にとっては見上げる程高い梯子の上で「消防士さん」が披露する、キレッキレの技が衝撃的で、忘れられないシーンとして脳裏に刻まれているのでした。

ところが、その後お目にかかる機会もなく、写真も残っておらず母も既に他界しておりますので、実際に行われたかどうかもおぼつかない幻のような思い出になってしまっていたのでした。

先日、松戸市広報課が長年にわたって「広報まつど」用に撮影した貴重な写真が、松戸市立博物館に収蔵されていることが分かりまして、有難くも閲覧させていただく機会を頂きました。

その中に、なんと当時の消防の出初式の写真を発見いたしまして、私の幻のような記憶が真実であったことが確認できたのです!

写真提供:松戸市立博物館/『松戸市役所広報課旧蔵写真目録』より

写真を見つけた時は「オーーー!!!」と思わず歓声を上げてしまいました。

何とも凄い写真です。

写真の周辺部から見ていきますと、背景に「新松戸ファミールハイツ」が見え、左隅の比較的近いところに「三菱銀行」(現三菱UFJ銀行新松戸支店)が見えますので、この場所がどのあたりなのか理解するのに役立ちます。

遠くて識別できませんが観衆の中には、きっと幼い私と母もいるのだと思います。

そして写真の核心部分となる、梯子乗りをしている方々をよく見ると「松若」と書かれた法被を着ており、写真右側の人は同じく「松若」と書かれた立看のようなものを持っています。→立看のようなものは「纏(まとい)」というものだそうです。

また、はしごを抑えるために使用している棒のような道具は「鳶口」というもので、Wikipediaによりますと、下記のような説明があります。

さらに、「松若」とは何ぞや?とネットで調べてみましたところ、「松戸若鳶会」であるということが分かりました。

2022年に松戸若鳶会では50周年記念式典が行われたとのことで、その時の写真が掲載されているサイトが見つかりました。

ありました!1980年の写真に写っている纏と同じに見えます!


もう少し調べますと、コロナが流行する前の令和2年には松戸市消防出初式において、梯子乗りも行われていたことが分かりました。
(残念ながら今年令和5年の出初式のプログラムに梯子乗りは無いようです。)

そう、梯子乗りをされていた方々は消防署の消防士さん達ではなく、地域の消防を草の根的に支えていらっしゃる鳶職の方々だったのですね。

幼い頃にはそんなことは理解できませんでしたので、消防の出初式で凄いものを見れば「消防士さんスゲぇー!」となってしまいましたし、ボーっと何も考えずに生きてしまえば、そのままアラフィフになるまで「消防士さんスゲぇー!」と思い続けてしまうわけです。

この記事を書くまで、消防士さん達は火事が無いときには梯子乗りの練習をしているんだと本気で思っておりました。。

長いこと鳶職の方々に大変申し訳ない勘違いをしていたなと思います。

改めまして鳶職すごい!と心から思います。

今回、写真の発見によって色々なことが分かり、そして私の幼心に幻として封印されていた謎をまた一つ退治することができました。感無量です!

是非また松若の梯子乗りを生で見てみたいものです。これからは毎年松戸市消防の出初式をチェックせねばなりません。。

ところで最近、新松戸在住の私の親世代の方と知り合いになる機会がありましたので、件の出初式の話を切り出しましたところ、あの場所が空き地だった頃は各種イベントでよく使われていた、という話を伺うことができました。

木下大サーカスが公演したこともあったそうです。像を3頭も連れてきてたのだとか!

うちの両親は情報に疎いタイプですので、きっとチケットが取れなかったのでしょうね。

今更ながら大変残念です。。


2022年1月18日火曜日

昭和30年代初頭の流山の写真

今回は70~80年代の新松戸という趣旨からは少し外れてしまうのですが、以前飛び込みでお邪魔した老舗様からお借りした昭和30年代初頭の流山の写真をご紹介します。

自分が産まれるずっと前ですので、自ら語れることはほとんど無いのですが、貴重な資料と思いますので何か思い出やご存知のことがある方はコメント頂けますと幸いでございます。

撮影された方は既に他界されているとのことでしたが、写真の裏側には撮影した機材や日付、場所が記載されているものもあり、また展覧会で受賞したと思われるような記載もありますので、かなり本格的に写真を撮られていた方のようです。

1枚目は「東邦酒類株式会社 撮影日33.12 題名 運搬 佳作」と記載のあった作品です。


昭和33年といえば1958年のこと。Wikipediaによりますと、この年の出来事としては「東京タワー完工式」、「巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー」などが挙げられるようです。

映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の中で東京タワーが完成しますので、ちょうどこの頃を扱った映画として当時の時代背景を想像するために助けになるかもしれません。


東邦酒類株式会社については流山市のホームページにかなり詳細な説明が記載されておます。一時は日本の5大酒造メーカーに名を連ねるほど大きな会社だったようですが、残念ながら経営悪化により昭和39年(1964年)に破綻し翌年1965年に現メルシャンに吸収合併されたことがWikipediaからわかります。

写真に写っているお酒の銘柄を読み取りたくて目を凝らしたのですが判読できませんでした。「東菊」というのが代表的な銘柄だったようですのが他にも銘柄があった可能性がありますので、判読できる方がおられたらコメントいただきたいです。

2枚目は「33.12.7 初冬於鰭ヶ崎」と記載のあった写真です。


写真では、農家の庭先で牛が繋がれている傍らで2人の子供が日向ぼっこをしています。
女の子が履いているのは下駄でしょうか。
寝転んでいる子供が何かチラシのようなものを見ていますが、何でしょうね。。
背後には布団のような布が干してあり、柿が実っています。
屋根は茅葺屋根でしょうか。温かみのある作品です。

3枚目は撮影場所や日時がわかるメモはありませんでしたが、水田を背景に中学生くらいの男の子が漫画を読みふける構図が魅力的な写真です。


写真を拡大して目を凝らすと、少年が腰かけている石碑には「第二区利水工事竣工記念」と刻まれていることがわかります。

少年の傍ら、一番手前に置いてある漫画には「まぼろし」という文字が見え、また眼鏡をかけた人物の右半身が描かれていることがわかます。また、少年のすぐ脇に積んである最上段の漫画も「さるとび佐助」という文字が読み取れ、その下に三角形のような絵が見えます。

そんな手掛かりを元ににネット上を調べたところ、両方とも具体的なタイトルが特定でき、なおかつオークションで入手することができました。



こんな昔のものが意外と少ない手掛かりを元に手に入るんですね。驚きました。
写真の中に手を入れて引っこ抜いてきたかのような不思議な感覚を覚えます。

いずれも背表紙に「昭和34年12月号ふろく」と記載されていますので、男の子が手にしている漫画は少年画報昭和34年(1959年)12月号の本体なのかもしれません。(本体の方はネット上で見つけることができませんでした。)

ところで、2枚目と3枚目の写真にはそれぞれ「Leica DⅢ Elmar 1:3.5 50mm」、「Leica Ⅲf Elmar F3.5 50mm」と記載がありまして、上から順に下記のようなカメラのようです。

DIGIREXより引用

しっかりと記録が記載されている資料というのは、色々なことが分かりますので、本当に貴重ですよね。

同時にお借りした写真の中にまだまだ魅力的なものが残っていますので、また折を見て紹介していきたいと思います。

2020年11月10日火曜日

1976年、1985年の新松戸の風景が見られる凄い動画

 先日、Youtubeですごい動画を2本見つけましたのでご紹介いたします。

それぞれ1976年、1985年のいずれも流山電鉄の走行シーンなどを主眼に撮影されたものなのですが、その背後に映り込んだ背景やついでに映されたと思しき何気ない風景が素晴らしいのです。























特に1976年(昭和51年)の映像はクリアかつ編集も完璧!重ね重ね素晴らしい映像です。
自分が特に感動したのは下記のシーンです。


ちょうどこの年に2歳の自分が住むことになる新松戸コーポがこのときはまだ建設中で、作業用の足場がとれていないんです。

そして見覚えのあるこの石碑。いつのまに無くなったものやら、自分が小学校に上がるくらいまではあったと思うのですが、確かにこんなものがそびえたっていました。
「小金土地改良~」下のほうがススキに隠れて読めません。。
→どなたか解読可能な方、コメントください!

もう一つ深く感動したのが、下の木橋が映ったシーン。
これ、新坂川に架かっていたのですが、再び目の当たりにできるとは思ってもいませんでした。


自分がこの木橋を渡ったのはこの映像の数年後、橋はこれに輪をかけてボロくなっており今にも落ちそうな感じでした。材木ももっと黒っぽく変色していたと思います。(→注)

まだ幼く体が小さかったためでしょうか、おっかなびっくり渡ると新坂川の川面が遥か下方に見えてとても怖かったものですが、実際のところ高さはこんなもんだったのですね。。

80年代初頭は全国的に環境汚染が深刻な時期でしたから新坂川も物凄く汚かったんです。
なにやら得体のしれない緑黒いヘドロのような浮遊物がいつもゆったりと川面を流れており水も緑グレーに濁って川底が見えませんでした。

それも恐怖感を増幅させたのでしょうね。

この橋は生活で使っていた方々もおられたのでしょうが、子供達にとっては単なる度胸試し専用でしかございません。
中には渡りながら飛び跳ねたりワザと揺らしたりなどハードなプレイをする子も。

自分は橋を渡った武勇伝を両親に語り、二度とそんな危ないことをするなと思いっきり叱責されたのでした。

宅地化で子供がどんどん増えていた新松戸にあってはさすがにこんな危険なものが長く放置されるはずもなく、そのうち撤去されてしまったのでした。

位置関係としては下記の地図の通りとなります。

お次は1985年の映像からのショットになります。



中央付近に映る流山線の車両に目が行ってしまいがちですが、自分が注目したのは画面右端の方に見える黄色と赤のアーケードです。

看板に「パン」の文字がかろうじて読めますが、こちらパン屋の「ハンス」です。

店の真ん前に駐車車両があるのは、このころはもうハンスが小金中学校の前に移転してしまっていたからと思いますが、80年代初頭にはハンスは2店舗を構えておりこちらの店が本店でした。

おやつにちょうど良い大きさのプチパン、ふわふわのイギリスパンなど焼きたてのパンがとてもおいしく、当時絶大な人気を誇ったドラえもんなどのキャラパンも売っていて楽しいお店でした。ちなみにドラえもんパンの鼻は赤く着色されたチェリーでできていました。

奥の緑のアーケードは私の記憶が正しければ「ゴルフショップ大木」、流山線車両左側の赤いアーケードは「スナックしろあと」です。

これまでYoutubeはノーマークでしたので、こんな素晴らしい映像があることに驚くとともに感動いたしました。
動画をアップしてくださった方に心からお礼申し上げたいです。

(注)
後日、松戸市立図書館の本館で「写真アルバム松戸市の昭和」という資料を見ていたところ、昭和63年(1988年)の木橋の写真を見つけました。


昭和51年シネスコ版の映像よりも新坂川の護岸が高くなっており、木橋も高い位置に架かっているように見えます。
こちらの光景の方が自分の記憶と符合しますので、恐らく昭和51年から数年後に護岸工事が行われその時に木橋も架け替えられたのでしょうね。。

2020年2月11日火曜日

1950's松戸市横須賀の写真


ここ数か月のこと仕事が多忙で全く身動きが取れず調査などが滞っておりましたが、やっと落ち着きまして時間をとることができるようになりました。。

新松戸の昔のことは老舗様を訪問してお話を伺うのが一番。
今回も飛び込みでお話を伺いに行ったところ予期せず歴史的価値の高い写真をお借りすることが出来ました。

私の関心は主に70's~80'sの新松戸なのですが今回お借りしたこの写真はそれよりも断トツに古く、1950'sの横須賀地区の風景だそうです。

[写真1]

白黒写真ですし一部不鮮明ですので何が写っているのかよくわからないかもしれませんが、よく見ると写真右端にかすかに流山線の線路が見えているのがわかります。

馬橋⇔流山間に流鉄の前身「流山軽便鉄道」が開通したのは大正5年(1916年)とのことで、この頃は既に人の移動や物流を支えていました。

写真右の方に見える白い小屋のような建物は揚水場とのことで、そのすぐ手前を流れる新坂川から農業用水をくみ上げる施設です。

 ちなみに新坂川は、流鉄よりも後のこと昭和8年~12年(1933年~1936年)に掘られた人工の川なのだそうです。 調べるまで全く知りませんでした。驚きですね。

写真中央付近に少しぼんやりと映っている白っぽい構造物は新坂川にかかる橋です。
木に隠れて見えませんが橋の左側の方に旧小金城趾駅があったようです。

写真左上の方は霞んでいてよく見えませんが辛うじて田んぼの畦道が確認できます。そのあたりが現小金高校付近でしょうか。

 上の写真の現在の様子は以下のような感じです。
これまた木が邪魔していて見えませんが中央付近に新坂川の橋と流山線の踏切があります。(文末に地図を付けましたので後ほどご確認ください。)



他にも写真集のような冊子お借りすることができましたのでその抜粋を合わせてご紹介します。1960年代とのことです。

[写真2]
これは平戸弁天付近から北方向を撮った写真になります。
Wikipediaによると、モハ105は1954年~1979年に使われていたようです。

写真1の右の方に見えた白い小屋(揚水場)がはっきりと映っています。
現時点で似たようなアングルから写真をとると以下のような感じです。



[写真3]
かつて平戸弁天よりも南側にあった旧小金城址駅です。
1953年~1967年にこの位置にありました。
奥の建物には駅員さんが住み込んでいらっしゃったようです。
高倉健さん扮する「鉄道員(ぽっぽや)」という映画が思い出されますが、昔は住み込みが基本だったのですかね。


こちらも今時点では下のような感じ。こんなところに駅があったんだ―、というのも驚きですが線路左側の畑や雑木林が70年もの歳月を経て健在なのには驚かされます。



[写真4]
これは県道280号(白井流山線)とのことです。
左の石垣のように見えるのは流山産の瓶を積んで築いてあるのだそうです。
当時、東邦酒類という大手の酒造会社の工場が流山にあったそうですのでもしかしたらこの瓶もその東邦酒類製かもしれませんね。東邦酒類はその後、現メルシャンに買収されたとのこと。


現在の様子は概ね以下のような感じです。




[写真5]
こちらも県道280号(白井流山線)とのことで、写真4と逆方向を撮った写真となります。
道の左側には肥溜めがあって臭かったとのこと。



今のビューは以下のような感じです。



どの写真も素晴らしいですよねー。
現在の地図で各写真の位置をマッピングしてみました。



大変貴重なお写真と資料をお貸しくださいました老舗様に厚くお礼申し上げます。





2018年12月2日日曜日

用水路でザリガニ釣り


写真に刻まれている1983年5月7日というのを信じれば土曜日の午後です。
当時はまだ週休二日制ではありませんので午前中は学校があり、その後自分を含め共働きの家庭の子は学童保育所に通っていたのでしょう。
今回の写真は学童保育所の友達とザリガニ釣りに行った時の写真と思われます。


今ではあまりにも景色が変わってしまい正確な場所を特定するのは困難ですが、記憶によれば下の地図の赤枠のあたりです。新松戸西パークの北西、南流山中学校の南あたりです。


当時はこの辺りには田んぼが広がっておりまして用水路の中にはザリガニのみならず各種のカエルやクチボソ、金ブナ、ライギョなどが生息しておりました。

成熟した赤いザリガニは「まっかちん」と呼ばれていました。
当時は娯楽の少ない時代で猫も杓子もザリガニ釣りをしていましたので、キャッチ&リリースを繰り返されたザリガニ達はすっかりスレてしまっていて、なかなか餌に掴まってくれませんでした。
稀に「まっかちん」を釣り上げるとかなりの達成感を感じたものです。

小学生がザリガニを狙う一方、中学生のお兄様方は鮒やライギョを狙って釣りをしていました。
当時はまだルアーなどは一般的ではなかったのですかね、ライギョ狙いの人は生きたカエルに針をぶっ挿して泳がせて釣っておられたようです。

あるとき知らないお兄さんからもらった鮒や自分で捕まえたクチボソなどを持ち帰り、父の小さな金魚水槽に勝手にINしたことがあったのですが、なんせ野生の魚ですから予想以上に強く、かなりの金魚がつつかれて殺されてしまいました。
父を悲しませる結果となり、捕まえた魚を逃がしに行った思い出があります。

あとザリガニは持ち帰ってマンションのベランダで飼ったりしていたのですが、結構脱走してベランダから落ちるんですね。住んでいたのは7階でしたので、よくマンション下のアスファルトでペッちゃんこになっていました。
そういえば自分が飼っていたものではありませんが、血だらけで瀕死のカメが落ちていたのを見つけたこともありました。

思い出を書くうち生き物残酷物語みたくなってしまいましたが、ともあれ昔は新松戸にも田んぼや用水路などの自然が残っていて生き物がたくさんいた、というお話でした。




2018年10月6日土曜日

岩本医院


かつて小金城趾駅から新坂川沿いに西に200メートルほど歩いた辺りに岩本医院という産婦人科がありました。
1970年代には新松戸中央病院もありませんでしたし、出産する多くのママはこの病院のお世話になっていたものと推察されます。

うちも例外ではなく自分の弟君はこの病院で生まれたのでした。

1978年の梅雨の時期のこと、まだ舗装されておらずいたる所に水たまりが出来た凸凹の砂利道を長靴で歩いて入院中の母を訪ねました。

きっと父がカメラを持ち込んだのでしょう。その時に岩本医院2階の病室の窓から新松戸コーポ方面を撮影した写真が以下です。


当時まだ4歳になっていなかった自分は「岩本医院」という名前も正確な場所も憶えておらず、母が入院していたのは「井口医院」の移転前の場所だと長らく思い込んでいました。
ところが、どうもこの写真に見える風景とGoogleストリートビューで見た旧井口医院からの風景で建物群のアングルが整合せず、不思議に思っていたのでした。

国立国会図書館に赴き70年代当時のゼンリン地図を閲覧したところ、ちょうどこの写真のアングルが撮影できる位置にかつて「岩本医院」という産婦人科があったことが分かりました。(現在は宅地になっており、病院は跡形もありません。)

母は既に他界しておりますので父に確認したところ、確かにその名前だったとのことで、やっとのことで撮影場所の確定に至りました。

引用元:国土地理院

上の写真は国土地理院からダウンロードした1979年9月の航空写真です。
上側が南、下側が北となっておりまして、冒頭の写真は赤い→のアングルで撮影されています。

「岩本医院」の内部については、断片的な記憶しかございませんが、重いガラスの扉を開いて中に入ると薬なのか消毒なのかミルクなのか或いはそれらが混ざったものなのか分かりませんが、少し甘い人工的な香りがしたのを覚えています。
扉を入って正面左側に診察室、階段を上って2階が入院できる病室になっていたと思います。

外景の写真は持っていなかったのですが、ご近所の方に頂くことが出来ました。


2010年の写真ということで弟君が生まれてから30年以上も後になります。
このころはもしかしたら既に廃業されていたのでしょうか。
看板などは見えません。
建物は老朽化が進んでいるように見えますが、あのガラスの扉は健在なようです。

ご近所の方の話ではここの先生は怪力の持ち主だったとのことで、入院している妊婦さんが夜中に産気付くと2階の病室から1階の分娩室までお姫様抱っこで階段を下りて運ばれたとのこと。

その話を聞いた時に、そういえばうちの母も階段を運ばれたような話をしていたなあ、と記憶が蘇ってきてデジャブ感を覚えたのでした。

この記事をご覧の皆様の中にもこの病院で生まれた方或いは先生にお姫様抱っこをされた方がいるかもしれませんよね。

開業されてる頃の写真をお持ちの方がいれば是非ご提供いただきたいです。




2018年2月28日水曜日

大金平観魚園

観魚園は想像を絶するくらい素晴らしい店でした。

極めて多種の金魚あり当時は珍しかった熱帯魚あり、カブト虫・クワガタ虫、釣り堀ありと来たら小学生の男の子にとって楽しくないはずがありません。

当時は娯楽の少ない時代、小学生のみならず特に男性は子供から大人までみんなこの店に通ったのです。
休日ともなれば釣り堀の周囲はオジ様達で埋め尽くされていたものです。。

そんな観魚園ですが皆に素敵な思い出だけ残してかなり前に閉店していまいました。
いまさらながら残念極まりありませんが、この度オーナー様にお願いして写真を頂く幸運に恵まれましたので皆様にご紹介いたします。


まずは外観、本当に懐かしいですよね。入店前からワクワクするのです。。


お店に入ると金魚達が迎えてくれます。
金魚は本当にたくさんの種類がいました。メダカやタナゴなどもいました。 うちの父は金魚を飼っていて日曜日はよく活性炭やパイポ、イトミミズなどの消耗品を買いに来たものです。


こちらは釣り堀。コンクリートのプールですが緑色の消毒液(多分、メチレンブルー)が溶かしてあって、水の下の方は見えなくなっていました。


かかっていたBGMは当たり前のことながら、ド演歌でございます。
大人から子供まで演歌を聴きながらの釣り。オツなもんでした。

餌はうどんを短く切って蛹粉をまぶしたものかウジ虫を選べるようになっていたと思います。
自分は小学校低学年の時にここで初めて釣りをしたのですが、全然釣れないのを見かねたシニアなお客様にやり方をお教えいただき、結構でっかい鯉が釣れたのを鮮明に覚えています。あの時の喜びは一生忘れないことでしょう。


こちらは受付ですね。ここでお金を払って釣り竿と餌を受け取るんです。 あの頃の記憶が激しくよみがえり泣きそうな気分になるのはきっと自分だけではないでしょう。


どうでしたか?
心の吟線に触れるような素晴らしい写真をご提供いただきましたオーナ様に感謝申し上げます。

2018年1月1日月曜日

ダイマツ商店

1983年頃のことでしょうか。
小学校低学年だった私は親友と共にダイマツ商店という酒屋兼駄菓子屋のようなお店に足しげく通いました。

お目当ては瓶入りのドクターペッパーです。
ドクターペッパーはそれ自体大好きな飲み物でしたが、それに加えダイマツ商店のドクターペッパーにはもれなくクジ引きをする権利がついてきており、その景品がカブト虫やクワガタ虫だったのです。

この頃はまだ新松戸でもコクワガタが採れ、極稀には小型のノコギリクワガタくらいは捕れたのですが、ダイマツ商店の立派なカブト虫やクワガタ虫は魅力でした。
ご店主夫婦が柏のゴルフ場で捕まえて来たものだったと伺った記憶があります。

当時ドクターペッパーは1本70円でした。
お小遣いがいくらだったのか覚えていませんが70円というのは当時の自分でも割と手の届く金額で、結構な数を飲みました。クジの方はハズレが多いものの、たまにクワガタ虫をゲットすると無上の喜びを感じたものです。

そんな思い出深いダイマツ商店ですが、この度、店主ご夫妻様にお願いして当時のお写真を頂くことができました。

まずはじめの写真は開店当初の頃のお写真とのことで貴重な一枚です。
自分が通っていた頃はこの黄色のアーケードだったと記憶しています。 あの頃の楽しい記憶が蘇ってきます。


以下は1986年~87年頃当時の店内の様子になります。




店内所狭しとお酒の瓶が陳列してある風景。懐かしさに胸が熱くなります。

その後、新装開店されたとのことです。
自分はこの頃には既に新松戸を離れてしまっていたのであまりなじみはないのですが赤いアーケードが素敵で、昭和の時代独特の活気と美しさが感じられます。



当時子供でお店に通っていた方にとってはどれも見入ってしまうようなものばかりだったのではないでしょうか。
お写真を下さいました店主ご夫妻様に改めましてお礼申し上げます。


2017年10月28日土曜日

サイクルショップおんだ


1979年頃のことと記憶していますが、保育園の年中か年長くらいの時に初めて自転車を買ってもらいました。
親父の趣味だったのですかね。何故か当時全く知らなかった「ドカベン」がプリントされた子供用自転車でした。

その頃の新松戸は発展途上でダイエーなどまだありませんでしたので、買い物をする時は流山線の小金城趾駅前の商店街まで足を運んでいました。当時新松戸近辺で最も栄えていたのがこの辺りだったのです。

自転車も例外ではなく小金城趾の「サイクルショップおんだ」という自転車屋さんで買ってもらったのでした。
当時から新松戸に住んでいた人は結構利用していたのではないでしょうか。サイクルショップ恩田のラベルが張られた自転車が体感として80%以上を占めていました。

今はもうお店は無くなってしまっているのですが、幼心にとても嬉しい出来事があった場所として忘れられない記憶として残っています。

今回オーナーご家族様にお願いして写真を頂くことが出来ましたのでご紹介します。


緑の幌に昭和のレトロポップな字体のアーケードがたまらなく懐かしいです。
改めて当時の記憶が鮮明に蘇ります。


昭和の時代のお店は活気や個性があって見ているだけでワクワクしますよね。
今はショッピングモールや通販に押されてしまい元気のある個人経営の店舗を見つけることは難しいので寂しい限りです。

右奥の赤いアーケードは喫茶店の「りべるて2」です。
「りべるて2」はまだ現役でお店をやっていらっしゃり、昭和な雰囲気の中で美味しいコーヒーが味わえる銘店です。

最後の写真はサイクルショップおんだ様が開店した時の様子ですね。


写真の右枠から、プリント年が1974年であることが分かります。
また「本日開店」の張り紙から3月14日であることが分かります。

この時自分はまだ生まれていませんでしたので多くを語ることはできないのですが、この時代の活気を伝える貴重な一枚に思われます。

ご協力くださいましたオーナーご家族様にお礼を申し上げます。

ちなみに自分が恩田サイクルで買ってもらった自転車は既に無く写真も撮っていなかったのですがネットで探したところ、フォト蔵というサイトで画像を見つけることができました。


引用元:http://photozou.jp/photo/show/226339/158973102

確かにこれです!
35年以上の歳月を超えてまた目にすることができるなんて思いませんでした。あまりの懐かしさに不思議な感覚に陥る一枚です。
今は何でも情報が転がっているものですね。画像をアップ頂いた方に感謝です。

===
後日、オークションにてドカベン自転車の広告を入手しました。
National製だったのですね。
ブザーの表側に描かれた絵が懐かしいです。






2017年5月5日金曜日

1984年1月19日の大雪


1984年1月19日は大雪でした。新松戸でも積雪が20センチを超えたのです。

自分は当時3年生だったのですが、かぎっ子で学童保育所に通っていました。
当日は昼頃から雪が降り始めたと記憶していますが、未だかつて経験したことのないような積もり方で、学校から学童保育所への下校中に雪玉を転がして帰りました。

雪玉の直径が1メートルを超えるとかなり転がすのがきつくなり、休み休みかなりの時間をかけて押して行きましたが、後から来る子供達や近所の主婦にも手伝ってもらい、何とか学童保育所にまで転がして帰ることができたのです。
着いた時には手袋も通水していて手が氷のように冷たくなり、靴もびしょぬれでした。

その時に作った雪だるまがこれ。
言うほど大きくないじゃん、と思うかもしれませんが、実は雪だるまは段差がある敷地の外側にあり、下部が30㎝くらい見えていないのです。

結構りっぱな雪だるまで、ローカル雑誌の記者が取材に来たりもしました。

この写真は雪が降った翌日ですかね。。


学童保育所には当時学校にあったのと同じように大きな黒い筒型の石油ストーブがおいてあり、そこで暖を取りながら手袋や靴下などを乾かしたのです。
全く同じものかわからないのですが、こんなイメージのストーブです。

pinterestより引用

ところで昔の新松戸学童保育所は新松戸4丁目254にありました。今は新松戸南小の敷地内に移ってしまったようですね。

<2007年頃の新松戸学童保育所のストリートビュー>



1984年の雪だるまの後ろに広がる雪原は当時まだ畑でした。
秋になるとさつまいも掘りなどをやらせてくれたのでした。

2007年のストリートビューでは砂利の空き地になってますね。。
今はサーバス新松戸というマンションが建っているようです。



この大雪は当時は結構な大事件で人が入れるカマクラなんて作ったのは初めて。
数日の間思い切り遊べたのでした。楽しい思い出です。


既にいいかんじのオジさんになり、当時の面影ございませんので顔出し上等でございます。